思い出のマーニーの思い出のマーニーの思い出の…

思い出のマーニー [Blu-ray]』を観た直後の私のつぶやきの興奮ぶりは「見られたくない卒業アルバムの写真」状態になっていて、かなり恥ずかしい。

 

ちょっと(いや相当)勢いこんでいるけれど、いまもざっくりとした印象の方向は変わらない。どしーんと落涙のストライクゾーンに入り込んできた(広いです)、いい作品だった。プロット、演出、そのほか云々に関しては割愛することにして、マーニーを振り返って浮かんだことを、ひとつふたつ。

 

ひとつめ。『マーニー』の最後の決定的なネタばれ場面で演出されている「世代が続いていることの、当たり前さと不思議さ。」について(映画見ないと分らないはず…分っちゃったら平にご容赦を。平に平に。)。それを見て思い出したのは、こんな文章。

 

ある日パン生地をこねているとき、ふと思った。いつから人類はこんなことをやっているのかしら。こんなことを考えるうち、過去には、パンをこねて焼いてきた女たちの、滔々たる系譜があり、今その末尾に私もつらなっていることに気がついた。私という一回性の現象も、その系譜という連続性のなかにあるという発見であった。喜びが沸きあがった瞬間、そのときが私の出発になった。

 

舟田詠子『パンの文化史』講談社文庫版 P3

 

「私は輪の外側の人間。私は私が嫌い。」と近年のマナーらしい(?)鬱屈した不安を抱える主人公、杏奈。輪の内側か外側か。最終的には本人が決めるしかしかない、最後にどうするか。で、そこからぶわああっと転回する最終シーンを見て、あ、『パンの文化史 (講談社学術文庫)』の冒頭じゃんこれ、と思った次第。

 

「世代が続いていることの、当たり前さと不思議さ。」について、この絵のことも思い出した。エルンスト・H・ゴンブリッチ『若い読者のための世界史(上) - 原始から現代まで (中公文庫)』の冒頭の挿絵。 

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著者が25歳のときに、「イルゼという実在の少女(後の妻)に語りかけるような形」で綴られたという世界史の冒頭。途方もないむかしむかしのことを表現するのに使った、鏡合わせの世界。ここでほぼ無限に連なっていく人の姿にあわせて、系譜もずっとつづいているんだよ、と。さしずめ「思い出のマーニーの思い出のマーニーの思い出の…」と杏奈の子孫(ができたとしたら)が語りついでいったら、のごとく。

 

のこりの一つ。マーニーは「ひと夏の体験」系としての系譜としても連なるなあ、、立派な金字塔を打ち立てたなあと…。それも脳内にとっかかりを残す、甘酸っぱく苦い系の。古いのからあげていくと。

 

『思い出のマーニー』はかなりSF入っていたけれど、こちらはサスペンスだった。無敵の映画。

 1997年に発売されたセガ・サターンのゲームソフト。といっても映像はなく、オーディドラマで要所要所の選択肢を選ぶだけ、の激渋なゲームだったけれど、忘れられない。いまwikiで見返していたら音楽は鈴木慶一、エンディングテーマは、矢野顕子「ひとつだけ」と分った、凄い。

リアルサウンド風のリグレット

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  この中では一番新しいアニメ。でも原作は一番古い、1967年。時をこえてる。

時をかける少女 通常版 [DVD]

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あ、あとマーニー主題歌のPV、素晴らしく最小限な作りでおすすめです。作曲者本人が来日したときの滞在先ホテルで撮ったんかこれ、予算ないんだなと思わせながらも。

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