#AMomentOfTokyo、千代田区編。情報と、写真と、自分の感受性くらい。

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さてさて、#AMomentOfTokyoの4回目。千代田区編です。

こちらからどうぞ。

 

 

東京23区を気のみ気のまま撮影していく「#AMomentOfTokyo」シリーズにおいて、

情報のことを思いながら行動する、は大事なことなのです。

 

情報は「情」と「報」でできている。

 

撮影するときに、じぶんという人間の器が「情」に反応する。

それを「報」せる、じぶん。

 

「情に反応する」っていうのは、たとえば建設中のビルだとか、打ち捨てられたような雑居ビルだとか。逆に、あんまり華美すぎる観光スポットは避けたり、だとか。要するに一人一人のクセだ。

 

「東京」と一口にいっても、一人一人の器のクセで、ずいぶんと違った風景になる。

 

それをじぶんのものさしでもって「報」せる。前回でいった「句読点」でくぎって。

フォーカスされた情報もあれば、放置されたままのものも、当然ある。

だから、そこで発信される「情報」は、器によって、ガラッと変わる。

 

たとえば、そうだなあ、、、さいきんでいえば築地市場が閉場して、豊洲へ移転したこと。

写真の撮り方は、豊洲タワーマンションに住んでいる人と、築地市場で何十年も働いていた人では、ずいぶん違うはず。

もちろん、そのどちらでもない、写真家や旅行者、なんかも。

 

つまり、ごひいきがたがいに異なれは、表現するものもずいぶん異なる、ということ。

もちろん、異なっていいのだけれど。

 

写真を見返すと、自分のベースとなる価値観が、だんだんと分かってくる。

 

「写真」は「真実を写す」なんて、言われる。だいたいは、ひやかしの意味をこめながら。

 

でもこの「真実を、写す」は、「真実(=自分のベースとなる価値観)を、写す」なんだ。

 

「自分のベースとなる価値観」は「自分の感受性」ってこと。

 

「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という句は、茨木のり子さんの詩から。

 

ばかものであるところの私は、そんなことをつらつら考えながら、さて次の撮影地どうしよっかな、などと企んでいます。

 

 

 

あ、写真作品ついでにこんなのもあります。

聴きながらでも、もしくはこれだけでも。ゆっくりしていってください。