2018年に発表された音楽で良かったものベスト10

こんにちは、小宇宙レコード主筆です。来年は不惑の年らしいのですが、相変わらず人生のあれこれに戸惑いまくっている39歳です。これが年齢同一性障害ってやつか…。

さて、2018年もたくさんの音楽を浴びてきました。その中から、ナンバリングはするけれど本当はまったく順位不同なベスト10をお届けします。

 

2018年はもうほとんど、音楽配信サブスクリプションサービスが浸透してきた感じがする。去年のベスト記事では、サービスを利用している同志を見かけることが多くなってきた、程度のことだったけれど、今年はもうみんな使いだしている、という感じ。「オリコン週間ストリーミングランキング」というのが12月から始まるというニュース(*1)も、客観的な指標かも知れないなあ。

 

そんな中、今年のはじめっから、AppleMusicからSpotifyへお引越し。

 

プレイリスト編集、楽しすぎる。楽しすぎ2018。ハガキ職人ではなく、プレイリスト職人というのがあったら、必ず毎日投稿してやる!くらいのはまりようで。とくにSpotifyはPCでのリスト編集が圧倒的に便利なのです。

自分の場合、リスト編集は記憶の定着作業がお役目。あとは、己の音楽執着の怨霊(=音量)を鎮める役割。ので、あんまりAIとの競争は意識しておらず。でも、LINEのスタンプクリエーターやnoter (noteを毎日更新する人、いま思いついた)みたいに、これで生活の足しになったら、たまらないよね。

 

あ、noteにてこんなことやってます。美味しいプレイリストも揃えてますので、どうぞフォローしてやってください(『泣いた赤鬼』風インビテーション)。

 

 

閑話休題。 

 

今年は、そんなこんなでサブスクサービスが伸びていたけれど。もはや世界の中で、CD売上が音楽サブスクを上回っているのは日本だけになった。見事なガラパゴス。でも、さすがに2020年までには乗り越えていくとは、思う…。

音楽を取り巻く状況は目まぐるしく変わるけど、音楽自体は変わらないさ。今年もしばしお付き合いください。

 

■1 水曜日のカンパネラ / ガラパゴス

ガラパゴス [Analog]

ガラパゴス [Analog]

 

ガラパゴスといえばこれ。タイトルとジャケット写真だけでメシが3杯くらい進みそうな、カンパネラの新作。ばっきばきに尖ったトラックメイクこそあれど、新作という気もせなんだ。かといって、古いでもなく。

現代に生きる吟遊詩人、さだまさしがかつて、「うたを古い新しいでわけないでください。好き嫌いでわけてください。」と言っていたというけど(*2)、そんな感じです。

 

とくに、この曲には唸らせられた。

 

 

アルバムには収録されていない尺が、このミュージックビデオにはある。

それは、冒頭の少女の語り。日本語字幕を抜き出すと。

 

とにかく 私は走らないといけないのだ
不確かなものに犠牲を払う
その行為だけが確かなのだ
もう ここにはいられない
こどもの私が 離れていく
振り返る時間は ない

 

不確かさで霧がたちこめる昨今、とにかく走らないと。そういう焦燥感に対して、曲調は勇気付け。進軍ラッパのように響く。

 

 「こどもの私が 離れていく」くだりは、映像のように本当のこども、でもなくて。

 

たとえば、アーサー・C・クラークが1953年に発表したSF長編『幼年期の終り』のタイトルにある、「幼年期」。人類ぜんたいが変わっていってしまう谷間(=幼年期の終り)にさしかかっていて、だからこそもう、振り返る時間さえないような。

 

ここでこの歌の「原作」となった治のメロスから一節。もう、「人の命」さえ問題ではなくなってしまっている、凄み。ここだけ見ると、発表された1940年よりも、約80年後の今のほうがフィットする気がしてくる。

 

それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ

太宰治走れメロス』(青空文庫より)

 

■2 tofubeats / RIVER

RIVER

RIVER

 

 

tofubeats氏の全体像はまったく知らなかったし、この「RIVER」を主題歌とした映画『寝ても覚めても』 も、ついに劇場でみることはなかった。だのに。なぜかこの曲を聴くと、観たことのない映画を観た気になる、名曲。とりあえず、YouTubeをば。

 

 

盛り上がりまでの導入部分が、2回。長いながらも、ていねいに、少しづつ、ベーストラックが入れ替えられる。サビ部分までのストリングスが最高に洗練されている。サビ部分も音数を抑えて。徹頭徹尾、冷静にコントロールされている。なのに、熱い。

歌詞の冒頭「寝ても覚めても愛は」でいきなり映画のタイトルを歌うように、見事な商業ソング。

 

 

■3 Silivia Iriondo / TIERRA SIN MAL

TIERRA SIN MAL

TIERRA SIN MAL

  • アーティスト: シルビア・イリオンド,カルロス・アギーレ,ハファエル・マルチニ
  • 出版社/メーカー: SPIRAL RECORDS
  • 発売日: 2018/03/09
  • メディア: CD
  • この商品を含むブログを見る
 

 

今年、だけではなくて、これからもずっと聴いている気がする。

 

「アルゼンチンのネオ・フォルクローレ・シーン」という、興味深々なシーンを代表する、シルビアさんの音楽。果てしなく懐の深い音像。流しておくだけでも気分がいいし、ちゃんと聴くとそれはそれで圧倒されてしまうという、不思議な音楽だった。 

 

このアルバムで一番感動した曲は、これ。たぶん2018年聴いたいろいろな歌のなかでも、一番感動した気がする。全俺が泣き続けています。

 

 

アルバムの予告編のような動画。「アルゼンチンのネオ・フォルクローレ・シーン」を体現(?)するかのような、お気楽極楽な雰囲気。ここに入りたい、猫として。

ファン・ファルーやカルロス・アギーレなど、多士済々が作品ついてコメントしている。あ、なにを言っているかは分からないけれど、たぶんいいこと言ってる。。

 

 

 

今年の発表ではないけれど、シルビア・イリオンドやリリアナ・エレーロと同じ人情を感じさせるアーティストにも遭遇した。モニカ・サウマーゾ。雄大で、包み込まれる感じ。これもいいんだよなあ。

 

 

■4 小袋成彬 / 分離派の夏 

分離派の夏

分離派の夏

 

 

2018年の夏はこれ一色だった。「平成最後の夏」というより「昭和最後の夏」感のする詩の世界。音像のスタイルこそ、フランク・オーシャンやジェイムス・ブレイクらのリズム感や、トラックの引き算感を踏襲した感があるけれど、完全に自身の血肉とした感じ。それになにより、歌詞とメロディに圧倒された。

 

こんな歌詞で、こんなメロディ。

こんな粋な組み合わせは、他に聴いたことがない。

 

喘息をこらえて 
縁側の座椅子で 
朝まで話そう
線香漂うリビング 
僕らを睨む君の親父の遺影
陽炎に僕らは溶けた
  
グアムじゃ毎日熱にうなされて
会話もせずに
あれはごめん

白い肌が勲章なのさ
二人の

 

今度は君が倒れた
隣の町の噂でさ
一番に駆け付けたのが自慢でさ
それから心だけは半年以上も動いた
見慣れた寝顔に髭が

白い肌が勲章なのさ
二人の
二人だけの 

 

 

小袋氏本人も、その周りの人々も、静かに熱狂している。そんな中でも、この記事がもっとも胸を打つ。ちょっとした私小説を読んでいる気にもなる。

 

 

■5  JOINT CUSTODY / BE GOOD

Be Good

Be Good

 

 

個人的に2018年が他の年と違うなあ、と思ったことは、海外のアーティストから直接コメントされることがままあったこと。これは、Spotifyのサジェスト機能がインディーズよりな音楽を教えてくれたことが起点。そこから、Google検索で彼らのTwitterにメンションをおそるおそるとばしつつコメントしてみると、かなりの割合で返信してくることが多かった。

 

そして、プロモーション(というかエゴサーチ)も本人らがやっているからか、気軽な感じがした。

 

例えば。

 

そんなこんなで私のSpotifyの2018年は、JOINT CUSTODYから始まり、彼らによって終わる。ぜんぜん、無名のアーティストなのに、偶然通りかかったというやつだ。

彼ら自身の発信力はまだ少ないようだけれど、音楽の濃さとはまったく比例しない。

 

 

■今年の忘れられない音楽ニュース: ECD氏の死去

 

これは書いていたら一記事できてしまったので、noteでどうぞ。

 

■6 マイケル・フランクス / ザ・ミュージック・イン・マイ・ヘッド  

 

 

昔っから良かったのは今も変わらず。新しい人も、古い人も。もしくは、伝統的なものも、新鋭な音楽も。同じ平面上に拡散していて、それを受け取りたい人だけ受け取る感じがする。それはつまり、村がたくさんできている感じだ。

 

■ベストパフォーマンス: Jorja Smith

ごつい。

Tiny Desk Concert中、こんなにもアコースティックセットがオリジナルと比肩する例も珍しい。というかこっちの方がいいかも知れない。悶絶する。リズム隊の繰り出すノリも恐ろしいが、それに乗ろとしていない、にも関わらず完全に捉えているJorja Smithも凄い。

 

 

■ベストミュージックビデオ: Bruno Major

Jorja Smithが「動」なら、こっちは「静」。

意味の分からない恐ろしさが極まると、それは崇高と呼ぶらしい。ヒッチコックの『サイコ』よろしく、鳥たちが台風のように一丸となって舞う姿は、ちょっと気味が悪いくらいだけれど、うねる動きから目が離せない。そこに、こんな静かな、ささやかな歌が乗る。

 

  

■7 福盛進也トリオ / For 2 Akis

フォー・トゥー・アキズ

フォー・トゥー・アキズ

 

 

 

■ベストお気楽極楽パフォーマンス: Joe Barbier

 

 

■ベストファイヤーダンス: Nai Palm

Needle Paw

Needle Paw

 

 

■8 Caetano Moreno Zeca Tom Veloso / Ofertorio Ao Vivo 

Ofertorio Ao Vivo

Ofertorio Ao Vivo

 

 

カエターノはいま、彼が亡命せざるを得なかったブラジルのことを思い返している。いまブラジルでは、歴史を繰り返されるかのような。

 

■9 PJ Morton / Gumbo Unplugged (Live)

Gumbo Unplugged (Live)

Gumbo Unplugged (Live)

 

 

■人間の手でプレイリストをつくることについて

今年ははじめからおわりまで、とにかくSpotifyに耽溺した1年だった。で、最後の締めくくりとして、Spotifyは自分のリスニング記録をまとめて、プレゼンテーションしてくれるのだ。それによると。

 

 

そしてそして。このリスニング履歴に基づいて、「あなたがまだ手を出していない冒険プレイリスト」まで掲示してくれるという、親切さ。

こうなってくると、果たして自分でプレイリストを編集する意味がどんどん薄まってくるような。

 

けれども。

 

そんな意味の病については、ハンドニットのデザイナー三國万里子氏のこのつぶやきがほとんど完璧に答えてくれている。

 

ので、あんまりそこで悩むことは、いまのところはない。

 

 

■10 Melody Gardot / Currency of Man 

Live in Europe

Live in Europe

 

 

 

 

■ベスト音楽ニュースたち: 個人でやるのにサポートが整ってきた

 音楽ニュースで今年衝撃的だったは、これら。

 

サービスだったりスキルだったりが誰でも使えて、ほとんど無料になるのを「民主化」というなら。2018年はその動きが胎動している1年だった、と思う。

その逆も同時に進行中。つまり、「みんなが表現しているなか、俺は一体なにをしたらいいのか…」問題だ。好きを見つけなければならない病気ともいえるけれども。

 

そうそう。そんな中、2018年で一番勇気をもらった歌はこれだ。

 

CHAIのこの曲、21世紀のイマジンかと思った。お前は駄目だ!を反転とさせ、強みへと活かす。「強味」、といっている時点であれかも知れないけれど。この楽しさ。一体ありゃなんだったんだ。

 

 

 

長々とお付き合いくださりありがとうございました。

 

見事に年を経るごとに長文になってきて、内容も散らばっている…。

師走の折、隙を見てつまみ食い程度に読んでいってください。

気に入ったら広めてくださると嬉しいです。ではでは。

 

 

ちょっとした引用

*1「オリコン週間ストリーミングランキング」というのが12月から始まる https://www.oricon.co.jp/confidence/special/51685/

*2 永六輔NHK人間講座 人はなぜ歌うか 六輔流・日本音楽史』p.136

 

■2017年のベスト10

■2016年のベスト10 

■2015年のベスト10

■2014年のベスト10

■2013年のベスト10

 

にぎやかな夜はまるで私ひとりの祝祭日: 石垣りんは20世紀最高のオプティミスト

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「にぎやかな夜は まるで私ひとりの祝祭日」。

夜のことを、こんな風に素敵に表現したのは、詩人石垣りん氏。

 
この部分だけ切りとると、ほっこりとした、幸せな気分となってしまうかも知れない。

でも実は、その表現が収録されている詩全体を読むと、まったく印象が変わってしまう。変わるどころか、まったくの逆。

 

その詩のタイトルは、「その夜」という。どんな夜か。

 

 

   その夜


           石垣りん

 

 女ひとり
 働いて四十に近い声をきけば
 私を横に寝かせて起こさない
 重い病気が恋人のようだ。

 

 どんなにうめこうと
 心を痛めるしたしい人もここにはいない
 三等病室のすみのベッドで
 貧しければ親族にも甘えかねた
 さみしい心が解けてゆく

 

 あしたは背骨を手術される
 そのとき私はやさしく、病気に向かっていこう
 死んでもいいのよ

 

 ねむれない夜の苦しみも
 このさき生きてゆくそれにくらべたら
 どうして大きいと言えよう
 ああ疲れた
 ほんとうに疲れた  

 

 シーツが
 黙って差し出す白い手の中で
 いたい、いたい、とたわむれている
 にぎやかな夜は
 まるで私ひとりの祝祭日だ。

 

   詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』1959年

 

40に近い女性が、一人きりで、背骨の手術を受ける。しかも、かなり症状は重い。 うめくほどに、痛い。 悲しく、辛い。孤独で、寂しさが極まる。

 

でも、ところどころをよく読んでみると、皮肉めいた、けれど実感が込められたような、感情のうらおもてが同居したような表現がたくさんあることに、気づく。

 

「私を横に寝かせて起こさない 重い病気が恋人のようだ」。

「重い病気が、恋人?」。独身で頼れる身寄りが無かった彼女にとっては、守るべき家族こそが心のよりどころだった、という。そして、その世帯には自分しか経済的な柱はいない。だから、なにがあっても休まず、働かなくては。

だからこそ、「重い病気」くらいの重りでなければ、彼女になにもしないでいい自由がなかった。だから、病気こそは嬉しくない来訪者ではあるけれど、ひとときの自由を与えてくれる者でもある。

 

「貧しければ親族にも甘えかねた さみしい心が解けてゆく」。

唯一の大黒柱であった彼女にとって、親族にも頼る先はない。でも、病院のベッドには、入院という言い訳には、思う存分甘えることができる。世間の束縛から解かれて。

 

「そのとき私はやさしく、病気に向かっていこう 死んでもいいのよ」。

死んでしまったら、残された家族は困窮してしまうけれど。それは同時に、いろいろ背負ってきてしまったことごとからの解放でもある。だから、もういいんじゃない、とでもいうような、独白。

 

「ねむれない夜の苦しみも このさき生きてゆくそれにくらべたら どうして大きいと言えよう」。

この手術が成功して、このさきもこの生活を続けるとしたら。そのことと、ここで死んでしまうことを天秤にかける。苦しみに意味を見出す。まるで福島智『ぼくの命は言葉とともにある』のような哲学。

 

「いたい、いたい、とたわむれている にぎやかな夜は まるで私ひとりの祝祭日だ」。

「にぎやかな夜」のせいなのは、シーツの下で、自分の手足がもがいているからだ。でも、そんな状況さえも「私ひとりの祝祭日」としてしまう。

 

こんな、重すぎる人生のボディーブロウを連打しつつも、わたしたちが分かっていることは、これは詩という表現だということ。石垣氏は何度も推敲を重ねて、バランスを取りつつ、この表現のプラスとマイナスをぶつける実験をしていたということ。

CERN素粒子実験ではないけれど。ある意味、彼女は少しの興奮を覚えつつ、この編集体験を繰り返していたのではないか。そしてその結果は、(少なくともわたしは)人生や、孤独や、痛みや、疲れ、に対して、ガラッと見方が変わるような気がしている。

石垣りん氏にとって、独身女性の孤独、経済的に支えていかねばならない家族、死ぬかもしれない手術さえも、なんてこともない。詩を通せば相対化されてしまう。

そんな意味で、彼女は「20世紀最高のオプティミスト」なのではないかと思った。

 

私の前にある鍋とお釜と燃える火と―石垣りん詩集

私の前にある鍋とお釜と燃える火と―石垣りん詩集

 

 

 

夜に関して、期間限定のWEB個展を開催中です。

よろしくどうぞ。

 

 

 

 

#AMomentOfTokyo、千代田区編。情報と、写真と、自分の感受性くらい。

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さてさて、#AMomentOfTokyoの4回目。千代田区編です。

こちらからどうぞ。

 

 

東京23区を気のみ気のまま撮影していく「#AMomentOfTokyo」シリーズにおいて、

情報のことを思いながら行動する、は大事なことなのです。

 

情報は「情」と「報」でできている。

 

撮影するときに、じぶんという人間の器が「情」に反応する。

それを「報」せる、じぶん。

 

「情に反応する」っていうのは、たとえば建設中のビルだとか、打ち捨てられたような雑居ビルだとか。逆に、あんまり華美すぎる観光スポットは避けたり、だとか。要するに一人一人のクセだ。

 

「東京」と一口にいっても、一人一人の器のクセで、ずいぶんと違った風景になる。

 

それをじぶんのものさしでもって「報」せる。前回でいった「句読点」でくぎって。

フォーカスされた情報もあれば、放置されたままのものも、当然ある。

だから、そこで発信される「情報」は、器によって、ガラッと変わる。

 

たとえば、そうだなあ、、、さいきんでいえば築地市場が閉場して、豊洲へ移転したこと。

写真の撮り方は、豊洲タワーマンションに住んでいる人と、築地市場で何十年も働いていた人では、ずいぶん違うはず。

もちろん、そのどちらでもない、写真家や旅行者、なんかも。

 

つまり、ごひいきがたがいに異なれは、表現するものもずいぶん異なる、ということ。

もちろん、異なっていいのだけれど。

 

写真を見返すと、自分のベースとなる価値観が、だんだんと分かってくる。

 

「写真」は「真実を写す」なんて、言われる。だいたいは、ひやかしの意味をこめながら。

 

でもこの「真実を、写す」は、「真実(=自分のベースとなる価値観)を、写す」なんだ。

 

「自分のベースとなる価値観」は「自分の感受性」ってこと。

 

「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という句は、茨木のり子さんの詩から。

 

ばかものであるところの私は、そんなことをつらつら考えながら、さて次の撮影地どうしよっかな、などと企んでいます。

 

 

 

あ、写真作品ついでにこんなのもあります。

聴きながらでも、もしくはこれだけでも。ゆっくりしていってください。

 

 

#AMomentOfTokyo、葛飾区編。喫茶店は句読点、または壮大な放置プレイについて。

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さてさて、#AMomentOfTokyoの3回目。葛飾区編です。

こちらからどうぞ。


東京23区を気のみ気のまま撮影していく「#AMomentOfTokyo」シリーズにおいて、

茶店は句読点、なのです。

 

句読点。区切り。

「句」を「読」みやすくするための、「点」。

 なにかとなにかを便宜上にわけて、情報を取り出しやすくするもの。


茶店に寄るのはもちろん、オアシスとしての役割もあるのだけれど。

その区域にとっかかりを作って、記憶を取り戻しやすいようにしておくため。

あとは、考えを整理したり(あんまりしてないけど)。

 

もちろん、副作用的に、句読点を入れることによって、いくぶんかの成分は漏れてどこかに放置されているに違いない。撮影したときの感情だったり、匂いだったり。

 

とすると、人が文章を書いたり、撮影をしたり、分析をしたり云々は、壮大な放置プレイともいえる。

 

そんなことをつらつら考えながら、さて次の撮影地どうしよっかな、などと企んでいます。

 

 

あ、作品ついでにプレイリストも更新してます。

聴きながらでも、もしくはこれだけでも。ゆっくりしていってください。