#AMomentOfTokyo、葛飾区編。喫茶店は句読点、または壮大な放置プレイについて。

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さてさて、#AMomentOfTokyoの3回目。葛飾区編です。

こちらからどうぞ。


東京23区を気のみ気のまま撮影していく「#AMomentOfTokyo」シリーズにおいて、

茶店は句読点、なのです。

 

句読点。区切り。

「句」を「読」みやすくするための、「点」。

 なにかとなにかを便宜上にわけて、情報を取り出しやすくするもの。


茶店に寄るのはもちろん、オアシスとしての役割もあるのだけれど。

その区域にとっかかりを作って、記憶を取り戻しやすいようにしておくため。

あとは、考えを整理したり(あんまりしてないけど)。

 

もちろん、副作用的に、句読点を入れることによって、いくぶんかの成分は漏れてどこかに放置されているに違いない。撮影したときの感情だったり、匂いだったり。

 

とすると、人が文章を書いたり、撮影をしたり、分析をしたり云々は、壮大な放置プレイともいえる。

 

そんなことをつらつら考えながら、さて次の撮影地どうしよっかな、などと企んでいます。

 

 

あ、作品ついでにプレイリストも更新してます。

聴きながらでも、もしくはこれだけでも。ゆっくりしていってください。

 

#AMomentOfTokyo、中央区編。または、平平凡凡とは?

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さてさて、#AMomentOfTokyoの2回目。中央区編です。

こちらからどうぞ。

 

 

こういう風景ショット、英語では「mundane」というそうです。ちょっと前にTwitterで外国の方にそう言われました。

 

「mundane」というと訳にかなりばらつきがあって、言ってしまえば、平平凡凡。

平平凡凡かあ、、、。その方はかなり惹かれたらしい。

 

「東京といえば、そろいもそろって名所ばかり撮りやがる、だからおれっちは平平凡凡を決め込むんだ!」というのはもちろんまったく無くて。イルミも普通に撮ります。

 

ただ、自分のものさしで測れば、こういう風景の方が面白いかなあ、という体でやってます。

 

それにしても、平平凡凡。

これはノスタルジックというか、ちょっとした憧れを感じるなあ。

 

まずもって、平凡はない。トゥルー何気ないも、ない。

 

科学的に、客観的に、統計学的につとめても、データの収集や発表のプロセスのどこかで、人の意思が入ってしまう。

 

AIにしても、アルゴリズムを設定する時点で意思が入る。機械学習には、データをうまいこと「平平凡凡」する欲求はないし、そもそも「平平凡凡」なんて分からない。

 

 

だから、平平凡凡は、その言葉が便利なツールとして通用したころの時代性の名残り。

あとは、やっぱり、こうなっておけば大丈夫だろうという、究極の平均への憧れも感じる。

 

あ、作品ついでにプレイリストも更新してます。

聴きながらでも、もしくは単体でも。ゆっくりしていってください。

 

 

#AMomentOfTokyo、台東区編。またはクインシー・ジョーンズの、「710年間はヘビーだぜ!」

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さてさて、#AMomentOfTokyoの1回目。台東区編です。

こちらからどうぞ。

 

 

このプロジェクトの、ぬるっとした趣旨はこちら。

 

 

 

さいきん、Netflixのオリジナルドキュメンタリー映画『クインシーのすべて』に刺激を受けまくってます。

 

冒頭3分でなにが起きたかというと、

 

1.クインシーの仕事が大写しされるだけの導入
2.それを眺めるドクター・ドレーがでてきて「イカレてる」
3.クインシーの過去のギャング話にドクター絶句

 

という感じで。その後も過去と現在の編集が絶妙すぎて、飽きさせない。

 

番組の中でクインシー・ジョーンズが言っていた、この箇所が妙に印象に残ってます。

同じ12音が710年間使われ続けている
全ての人に
ブラームスベートーヴェン、ベイシーにボ・ディドリー
みんな同じ12音
ヘビーだ
そうだろ?
710年間だ!


Netflixのオリジナルドキュメンタリー映画『クインシーのすべて』1時間7分目あたり

 

写真でいえば、なんだろう。。


「射影された像を、なんらかの媒体に定着させる」ということでいえば、1827年

ニエプスの「ル・グラの窓からの眺め」らしい。

 

とすると、180年くらい。


710年間に比べればまだまだかも知れないけれど、言語の壁を越えて、演奏技術の壁を越えて、ってことになると。

 

そして最近はとくに、銀塩写真に必要だった暗室技術も軽々と飛び越えてるし…。

 

 

そう考えると、写真表現のユニバーサル具合は、おなじくらいのヘビーさかも知れない。

 

 

写真プロジェクト、#AMomentOfTokyoを始めます

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「きっと・・・ここに長く居すぎてしまったんだな」

 

とは、アニメ『進撃の巨人』における、見事すぎる裏切り(のタイミングが)者ライナー・ブラウンの名言でもありますが、自分もおなじ気持ち。20代の終わりから、いろいろありすぎて気がつけば早くも不惑の頃になってる…!

 

このままでもいいのですが、せっかく生きているのでここで写真プロジェクト、#AMomentOfTokyoを始めます。

 

といっても、23区を気の向くまま、いつもよりはまとまりのある形で編集していこうという、ゆるい企画です。

 

間口はゆるゆるですが、ぬるっと続けます(「またやってる」じゃなくて「まだやってる」byみうらじゅん)。

 

趣旨は「私を思い返すため」です。なんだそれは。

この文章が気持ちをいくらかは代弁してくれているような…。

 

感じられる人民の息づかい  松田道雄


私たちにあたえられている歴史は、民族精神がみずからを顕現していく倫理であったり、生産力の発達が生産関係を変革していく科学であったりするのがおおい。

 

いずれにしろ歴史は「公」の世界で、哀感をくりかえして、つかのまの生を終えて去っていく「私」はかえりみられない。

 

わずかに文学が、何ものにもかえがたい「私」を中心にして小宇宙を描いて「公」に抵抗する。

 

『「日本近代史」- 黒船から敗戦まで -』は、歴史のなかに「私」を回復させることを企てた大胆な本である。波乱の百三十年を著者は、人々の自伝と回想記によって復元した。

 

この復元が成功したのは、多年の思想史研究で研ぎすまされた歴史感覚が、時代を代表する「私」をピックアップさせたからであろう。

 

日本の人民の「私」の記録のリレーを通読して感じるのは、人民の「私」が、この百三十年の政治の「公」の重量をささえるはげしい息づかいである。

 

日本近代史―黒船から敗戦まで (1971年) より。

  

 

ただ、、、この文章のいちばん格好いい部分、その概念はちょろっとだけ変えたい。

わずかに文学が、何ものにもかえがたい「私」を中心にして小宇宙を描いて「公」に抵抗する。

この著書が書かれていたころみたいに、「私」と「公」はもうはっきりくっきりとは分かれて(別れて) いないんじゃないかな、と思うので。

 

だから、こうしてみたい。

わずかに文学が、果ての無い「公」のなかで、何ものにもかえがたい「私」という小宇宙を思い出させる

あ、上の文章で「文学」というのは、よく分からない衝動にかられてなにかをすることであればなんでもいいです。

 

もっといえば、人間らしいこと?

 

ほら、よくAIは『戦争と平和』なんか書かないなんていうじゃないですか。彼らにとっては作るモチベーションも無いし、やる意味もわからない。

 

振り返ったり、大局観になったり。一見無駄なことのように見えて、その実本人以外はよくわからないままだったりという、人間らしさ。

 

この先時代が進んでいって、人間の定義ごと変わっていって、脱近代したあとでも、きっとその残り香は残り続けるので。センチメンタルなことでもありますが。

 

あ、あともう一つ。この刺激的なことばも添えます。

微少宇宙我大宇宙と響き合い
奏(かな)でる調べ日々新しき


平成十三年四月八日に、NHK教育テレビの「こころの時代」で、
社会学鶴見和子氏が詠んだことば。
参照: http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-273.htm 

 

こんな小宇宙の概念の端くれに位置できたら、さいわいです。

 

 

プラットフォームは、cotenというWeb上で個展を開くというサービスを通して。

 2週間に一度、更新していきます。2週間 x 23区なので、46週間の長旅になる予定。

 

スフィアン・スティーヴンスが途中で止めちゃった(?)アメリカ連作、を本歌取りするつもりで脚色したい。東京23区(句)で。

 

あとは、、2020年を境に東京は大いに変わると思うので、その句読点として。

 

遠く、ジャン=ウジェーヌ・アジェ(20世紀前後のパリの建築物の撮影で有名)をどこか脳内に置きながら。

 

cotenでの私はこちらです。フォローしてくださると、いつかお会いしたときにキットカットくらいの気持ちを差し出します。

 

 

来週あたりから。

 

戦士として、最後まで責任を果す所存であります。