未来語り本やモノゴトが好きで、ことあるごとに読んでいる。
未来といっても、4,5年くらい先の話から、自分がこれくらいまでなら生きているだろうなあ、というぐらいの先まで。
それくらいの幅だと書かれているコトも、フィクションとノンフィクションの間、寓話と世間話の間、理想と現実の間の丁度いいバランスを保っていて、めっぽう面白い。
■1冊目は、ジェレミー・リフキン『限界費用ゼロ社会』。
タイトルにある「限界費用」というのは「モノやサービスを1つ増産するのにかかる費用」のこと。
たとえばモノとしての書籍で考える。幸運なことにある本の初版分が売り切れそうになって、追加しなくちゃいけないとする。そのとき1冊を増刷するために、いろいろかかってくるお金を考える。ちょっと語弊があると思うけれど、モノゴトを簡略にいうために極端にあげてみると、著者の稼ぎ、出版社の取り分、印刷代、取次の仲介料、紙代、インク代、等々。
この「限界費用」が、インターネットが社会のすみずみまで浸食することによって、どんどんゼロに近づいていく(産業によっては差はある)。書籍の場合でいえば、「電子書籍にしてAmazonで売るか!」とした場合。ごくごく極端な話、費用は著者の稼ぎと売れた場合のAmazonの取り分だけになる。
こんな調子で、本だけではなく、
輸送だったりエネルギー伝達(の効率)だったり教育だったりにかかっていた費用も劇的に減る。それにつれて社会も劇的に変わりますよ、
ということを懇切丁寧にまとめたのが、『限界費用ゼロ社会』の一つの要旨。
あくまで限界費用=モノやサービスを1つ増産するのにかかる費用のことなので、固定費用は避けて通れない(インターネットだって海底ケーブルのインフラやデータサーバーが必要だ、等)。それにしたって、コストを減らせるところはこんなにもあるのか!と感じたのが本書だった。
ただまあ、重々お気づきのように、
「人的コスト」も大いに劇的に減る
ので、どうにかしてこのビッグウェイブを乗り越えなくては…という気分にもなる。
■2冊目は、池田純一『〈未来〉のつくり方』。
題名からして未来語りしている。
シリコンバレーを中心に増殖しつつある、イノベイティブで(同時に既存産業を駆逐するので破壊的でもある)事業を紹介。その開拓精神がどうやってアメリカで醸成されてきたかを、19-20世紀の思想家たちを起点にしつつ、現代の実業家たちとの連なりを紹介する、というのがこの本の趣旨。
後半で展開されている
著者の見立てが鋭くて、「あーこうなるのかも未来…。」
と思わせられた。
直近の2020年代が「Internet of Things」。
(余談:「IoT」って駄々をこねて泣いている子どもに見えるな…。)
これは「モノのインターネット化」のことで、もうこの言葉を見ない日はない、くらいな流行語になっているけれど、いまいち実感を込めてどういうことなのか分かりにくい人もいるかも知れない。私もいまいちわかっていないかも。iPhoneのsiriだとか、Amazon Echoだとか。あ、あとIoTのビッグウェイブを起こしつつあるソラコムだとかがいい例なんだろう。
「モノのインターネット化」について怖いくらいに分かりやすいintelの素晴らしいまとめアニメを貼っておこう。
さて『〈未来〉のつくり方』に戻って、2030年代はどうなるかというと、「Internet of Lives」。
生命にインターネットは浸透していく。
それはどういうことかといえば、
合成生物学のように、DNAの操作をコンピューターのプログラミングのように扱える日が近づいている。(中略)生命と非生命、有機物と無機物との間の境界が曖昧にされていく。
(池田純一『〈未来〉のつくり方』p283)
2040年代の「Internet of Organs」までくると、もうなにがなにやら。人間、物、生命ときて、その次は器官、細胞にまでインターネットが浸潤する。見えないもの、操れないものだったレイヤーが段々と理解できるようになって、
精神と物質との境界が曖昧になっていくこと。
ここで大いにヒントになってくれそうな動画の力を拝借。納豆の動画をあげよう。正確には納豆菌。これがまたえらく恰好いい。
「モノの世界とサイバースペースとをいかに繋ぐか」に心血を注いでいる、マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボ内の研究チーム、タンジブル・メディア・グループ。彼らによる、ファッションショウでも始まりそうな、洗練された研究プレゼン動画。
納豆菌のもつ「微細な湿度に反応して膨張する」特徴を利用して、繊維に植え付ける。すると、例えば「踊って汗かいたーっ。」てときになると、服の形態が可変するのだ。
これらの本や記事や動画の端々に触れるだけでも、
「あーいま産業革命中なんだろうなあ。」というボケっとした感慨を強くする
のだけれど、同時に芥川龍之介ばりのぼんやりとした不安も強くした。
その「ぼんやりとした不安」というのは、
「仕事って、人間って、どうなるんだよ、うわー…!」
ということ。 こんな記事あんな記事いっぱい出回っているけど。2020年まで、あと少し。
「そんなの知らないよ!」と匙を投げて最寄りのフォース・ウェイブ・コーヒー・ショップ(地元のパン屋のイート・イン・スペース)でだべりたくなるのを必死で抑え、ネットの海をさまようと、一つの光明が…。いや、正確には予想着地点というか。
■ヘブライ大学の歴史家ユヴァル・ノア・ハラリのTEDトーク。字幕付き。
この回での主な内容(「人類の台頭はいかにして起こったか?」)も十分刺激的だったけれど、14:54からの、新刊(おそらく『Homo Deus: A Brief History of Tomorrow』のこと)についてさらりと言った言葉が衝撃的。
曰く、
コンピューターが人間を超越して、人間が不必要になる可能性がはっきりとしてきました。21世紀における政治的かつ経済上の大きな疑問は「何のために人間が必要なのか?」となるでしょう。
(中略)
富裕層は仮想の神に成り上がり、貧困層は役立たずの層に成り下がっていく。
社会的問題を防ぐには不必要な人々を満足させておくこと。ドラッグとコンピューターゲームで…。でもこれはあまり好ましい将来とは思えませんね。
うーん、
まったく好ましくない未来だ。
はたまた、ぼーっとしていたら映画『マトリックス』のようにコンピュータによって首筋からジャックインされて、仮想現実の中で気楽に過ごせているのだろうか…?好ましくないとかどうとか考える前に…?
未来の着地点の1つはなんとなくは分かったけれど、すっきりしない。
ので、最後はまた、ジェレミー・リフキン『限界費用ゼロ社会』に戻ろう。
18ページに早々と書かれていたケインズの言葉を孫引きして幕引きにします。
著者のリフキン氏が理想主義なのか、それとも引用されたジョン・メイナード・ケインズ(20世紀前半を代表する経済学者)がそうなのか、は知らないけれど。今の時代に読んでも希望に溢れた、いい言葉。
ケインズが見て取ったように、新しいテクノロジーは空前の勢いで生産性を向上させ、財やサービスのコストを削減していた。また、財やサービスを見直すのに必要な人間の労働を劇的に減らしてもいた。ケインズはその状況を表す新語を考え出しさえし、それを自らの読者に伝えた。
「これからの年月には、『技術的失業』という言葉を何度となく耳にすることだろう。これは、労働力の新たな使途を発見しうる速さを、労働力の使用を節減する手段の発見が凌駕するために生じる失業を指す」。
ただしケインズは、急いでこう言い添える。
技術的失業は、短期的には人々を苦しめるものの、「人類が自らの経済の問題を解決していること(*1)」を意味するから、長期的には大いなる恩恵である、と。
「こうした経済的必要が満たされ、さらなる勢力を経済以外の目的に傾けたくなる時が、まもなく、ことによると私たち全員が思っているよりもずっと早く、到来するかもしれない」とケインズは考えていた。彼は、機械がほぼ無料の財やサービスを潤沢に生み出し、人類を労役や苦難から解放し、そのおかげで人間は金銭上の利益にばかり心を奪われず、「いかに生きるべきか」や従来の枠を超えることの探求にもっと集中できるような未来の到来を待望していた。(*2)
ジェレミー・リフキン『限界費用ゼロ社会』p18
*1:原文は傍点付き。
*2:改行と太字は筆者による編集。
ちなみにケインズがこう言った時代背景には1930年前後、つまり、失業者が増え、移民が増え、銀行が閉鎖していった、世界恐慌がある。
現代の状況下と似ている?なんて野暮なことは言いませんが、こうした歴史や未来本に触れることで、不安は少しだけ融解するような。少なくとも、折り合いの付け方はそれらからずいぶんと学ぶことができる。
■おまけ1:BGMはこれが最高。まずは3曲目「Ballet Mecanique」をどうぞ。
■おまけ2: 未来語り本まとめ
近々 > 未来派野郎志向、という並びになっております。