「きっと・・・ここに長く居すぎてしまったんだな」
とは、アニメ『進撃の巨人』における、見事すぎる裏切り(のタイミングが)者ライナー・ブラウンの名言でもありますが、自分もおなじ気持ち。20代の終わりから、いろいろありすぎて気がつけば早くも不惑の頃になってる…!
このままでもいいのですが、せっかく生きているのでここで写真プロジェクト、#AMomentOfTokyoを始めます。
といっても、23区を気の向くまま、いつもよりはまとまりのある形で編集していこうという、ゆるい企画です。
間口はゆるゆるですが、ぬるっと続けます(「またやってる」じゃなくて「まだやってる」byみうらじゅん)。
趣旨は「私を思い返すため」です。なんだそれは。
この文章が気持ちをいくらかは代弁してくれているような…。
感じられる人民の息づかい 松田道雄
私たちにあたえられている歴史は、民族精神がみずからを顕現していく倫理であったり、生産力の発達が生産関係を変革していく科学であったりするのがおおい。
いずれにしろ歴史は「公」の世界で、哀感をくりかえして、つかのまの生を終えて去っていく「私」はかえりみられない。
わずかに文学が、何ものにもかえがたい「私」を中心にして小宇宙を描いて「公」に抵抗する。
『「日本近代史」- 黒船から敗戦まで -』は、歴史のなかに「私」を回復させることを企てた大胆な本である。波乱の百三十年を著者は、人々の自伝と回想記によって復元した。
この復元が成功したのは、多年の思想史研究で研ぎすまされた歴史感覚が、時代を代表する「私」をピックアップさせたからであろう。
日本の人民の「私」の記録のリレーを通読して感じるのは、人民の「私」が、この百三十年の政治の「公」の重量をささえるはげしい息づかいである。
ただ、、、この文章のいちばん格好いい部分、その概念はちょろっとだけ変えたい。
わずかに文学が、何ものにもかえがたい「私」を中心にして小宇宙を描いて「公」に抵抗する。
この著書が書かれていたころみたいに、「私」と「公」はもうはっきりくっきりとは分かれて(別れて) いないんじゃないかな、と思うので。
だから、こうしてみたい。
わずかに文学が、果ての無い「公」のなかで、何ものにもかえがたい「私」という小宇宙を思い出させる
あ、上の文章で「文学」というのは、よく分からない衝動にかられてなにかをすることであればなんでもいいです。
もっといえば、人間らしいこと?
ほら、よくAIは『戦争と平和』なんか書かないなんていうじゃないですか。彼らにとっては作るモチベーションも無いし、やる意味もわからない。
振り返ったり、大局観になったり。一見無駄なことのように見えて、その実本人以外はよくわからないままだったりという、人間らしさ。
この先時代が進んでいって、人間の定義ごと変わっていって、脱近代したあとでも、きっとその残り香は残り続けるので。センチメンタルなことでもありますが。
あ、あともう一つ。この刺激的なことばも添えます。
微少宇宙我大宇宙と響き合い
奏(かな)でる調べ日々新しき
平成十三年四月八日に、NHK教育テレビの「こころの時代」で、
社会学者鶴見和子氏が詠んだことば。
参照: http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-273.htm
こんな小宇宙の概念の端くれに位置できたら、さいわいです。
プラットフォームは、cotenというWeb上で個展を開くというサービスを通して。
2週間に一度、更新していきます。2週間 x 23区なので、46週間の長旅になる予定。
スフィアン・スティーヴンスが途中で止めちゃった(?)アメリカ連作、を本歌取りするつもりで脚色したい。東京23区(句)で。
あとは、、2020年を境に東京は大いに変わると思うので、その句読点として。
遠く、ジャン=ウジェーヌ・アジェ(20世紀前後のパリの建築物の撮影で有名)をどこか脳内に置きながら。
cotenでの私はこちらです。フォローしてくださると、いつかお会いしたときにキットカットくらいの気持ちを差し出します。
来週あたりから。
戦士として、最後まで責任を果す所存であります。